ギリシャ&古代ギリシア人の経済の紹介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

古代ギリシア

農業 [編集] ギリシアは地中海性気候でなおかつ土地がやせていて大河川も少なかったためにいわゆる二圃式の乾燥農業(一年ごとに休閑期を挟む)が行われていた。

穀物類は大麦・小麦が主であり、特に前者の生産が圧倒的であった。古代ギリシアが植民地を必要とした背景には小麦の需要を賄いたいという思惑があった。また、黍の栽培はごく一部でしか行われず、稲に至っては存在自体は知られていたものの栽培はされていなかったようである。

一方、果実や野菜栽培は盛んに行われており、特にオリーブやブドウの栽培は多くの地域で行われていた。クレタ島やミケーネ文明の遺跡からはオリーブ油の倉庫跡が発見され、紀元前8世紀には葡萄酒の輸出記事が見られることからも分かる。

また農業専門書ではないものの、ヘシオドスの『仕事と日』は世界最初の農事暦とされており、クセノポンも『家政論』において農園経営論を説いている。ただし、後世の農学者からは前者の内容の評価は高いものの、後者は実際の農業を理解していないと厳しい評価をされ、特にマックス・ウェーバーからは酷評されている。カール・ポランニーは、ヘシオドスは互酬関係の崩壊について記していると指摘した。

商業
古代ギリシアの市場は、ポリス内部の地域市場と対外用の市場に分かれており、対内市場にはアゴラ、対外市場にはエンポリウムが存在した。アゴラにはカペーロスという小売人が居住し、中央集権制度にかわって食料の再配分を行なうための制度となり、民衆に食物を供給した。エンポリウムにはエンポロスという対外交易者が居住して取り引きを行なった。

植民地主義の影響
ミケーネ文明はシュリーマンによって様々な遺物が発見されたが、当時、植民地主義の時代であったため意図的に改竄された可能性が存在する。クノッソス宮殿はウィンザー城をモデルとして復元され、ミケーネで発見されたアガメムノンのマスクもカイゼル髭が付け加えられた。

これらの行為は当時、植民地であった西アジアよりもエーゲ海先史文明が高度であり、植民地の宗主国である国々にとって相応しい文明である必要があったために行われたもので、西アジアで発見された高度な文明と専制君主らに対抗するものであった[4]。

しかし、この専制君主のイメージは古典古代の文明の基盤が水平的な市民社会であるとしていた古代ギリシャ史研究家の間では到底、受け入れられるものではなかった。そのため、エーゲ海先史文明と古代ギリシャ文明との間に存在していた『暗黒時代』が利用されることになった。

この暗黒時代を利用することにより、エーゲ海先史文明は『前1200年のカタストロフ』によって崩壊、白紙となった上で暗黒時代に古代ギリシャ文明の基礎が新たに築かれたとしてこの矛盾は解消された。しかし、線文字Bが解読されたことにより、その矛盾は再び闇から蘇ることになった。

エーゲ海先史文明が古典期ギリシャの直接祖先ではないという暗黙の了解があったため、線文字Bはギリシア語ではないと考える研究者が大半であったが、1952年、マイケル・ヴェントリスによって解読されると線文字Bはギリシア語を表す文字であったことが発覚した。1956年、ヴェントリスとジョン・チャドウィックらが線文字Bのテキストを集成した出版物を刊行、1963年にはL・R・パーマーらが新たな粘土板の解釈を提示、1968年には大田秀通による研究が刊行されるとミケーネ文明の研究は躍進することになった

美彫グループ・ロゴマーク
ギリシャ&IHIC
ギリシャ&IHIC

 ギリシャ&IHICについて紹介しております